「音のない喫茶店」 2 |
「何気ない話題」
「よう、久し振り。コーヒーでもいれよか?」
相変わらず爺さんはコーヒー好きだ。
「チョッと前に、近くの喫茶店で飲んだところです」
「後で頂きますわ」
カバンを足元に置き、ソファーに腰を掛けた。
「本に夢中になりすぎまして、少しばかり遅れました。すいません」
店の様子を見回したが以前と少しも変わりはない。
相変わらず殺風景だ。
爺さんも、別段愛想がいいとは言えない。
これで30年以上商売を張っていることが奇跡ように思われる。
爺さんはコーヒーをトレーに載せ、毛布を被せたテーブルの上に置いた。
「自分のコーヒは自分でいれや」
「勝手は、前のままや」
ポーチから取り出したパイプにタバコを詰め出した。
いい香りが漂う。
シュッとマッチを摩り,暫く燃やし硫黄の匂いが消えると、
火をボウルの上に翳し、満遍なく行き渡させる。
爺さんのパイプを捌く無駄のない一連の動作は何時見ても俺をウットリさせる。
一種、芸術の域だ。
甘酸っぱい香りが部屋中に満ちる。
俺はタバコは吸わない。
紙巻タバコのいがらっぽい匂いには辟易するが、この香りは許せてしまう。
「どやっ、仕事の方は?」
爺さんはソファーに深く沈み込み、パイプは口に咥えたままで、目を閉じている。
細い煙が時折くゆりくゆり上って行く。
何時来てもこの会話からスタートだ。
「御蔭さんで、何とか食っています」
「それにしても不景気ですね」
何の変哲もない答えをした。
「わしゃ、いっつも不景気や」
「そやから、まぁ~、食って行けたら善しと思うているんや」
「でも、やっぱり景気はええ方がええに決まってるわな」
爺さんは本気とも冗談ともつかぬ顔をして自嘲気味に笑った。
「ところで、そこの喫茶店の事ですが、、、」
「うん?あのブロンズ像の道の傍にある店の事か?」
「いや、別に何でもないのですが。ご存知かな?と思いまして」
俺は然り気なく話題を変えた。
今日、爺さんを訪ねて来たには訳があった。
しかし、最初から切り出す勇気はなかった。
ご多分に漏れず、俺も不景気の波に揉まれ、喘ぎ喘ぎの状態なのが実情だ。
この道のベテランにヒントを得る為にやって来たのだったが、
分かってはいるものの、初手から「仕事の方は」と訊ねられ、
そのまま話に入っていくのも気が引けてしまい、話題を外らせた。
爺さんは表情を変えず、目を閉じたまま大きく最後の一吸いをし、
パイプをトレーの上に置いた。
そして腕組みをし、右手の親指で顎を支えている。
「何もかも見通されているな、、、」
そんな気がした。
「よう知っとるで」
「無愛想なおっさんとこやろ」
「どうやった?」
パッと目を開け、手を膝の上に起き直し、興味深げに身を乗り出し、俺を見詰めている。
「相変わらずの偏屈オヤジやろ」
「喫茶店やのに音楽も掛かっておらへん」
「妙な店やで」
爺さんはジャブを放つ様な口調で他人の悪口を叩く時は絶品だ。
俺も黙って頷く。
でも、腹の中では「そりゃ~、あんたにも言えるこっちゃろ」とツッコミを入れていた。
爺さんの目がこちらを向きキラッと光ったように感じた。
目線をそらし、笑って誤魔化した。
「昔のあいつはギター音楽が好きで、軽口も叩き、
冗談を咬ます様な男やったんやがなぁ、、、」
「嫁さんに先立たれてから、変わりよった」
「今では一切、音楽は聴かんし、店でも掛けん」
「それに無口になってしもうた」
爺さんは先程とは打って変わり、しんみりと話し始めた。
一頻り喋ると「うぅ~ん」溜め息とも呻き声ともつかぬ音を洩らし、
天井を見上げたまま目を瞬かせていた。
次第に頭を垂れ、そのまま目を閉じ、黙り込んでしまった。
「そやけどな、ひょっとして」
と言いかけ、言葉を詰まらせた。
溢れ出す涙を堪えようとはしない。
奥歯を噛み締めている。
俺には何も分らない。
ただ、茫然となすすべもなく、爺さんを眺めていた。
窓の外の南西の空は乳白色の水蒸気と微かに残る光を抱え込み、
薄青色に一滴の朱を注いだ不思議な色を湛えている。
エアコンの低く重い唸りが耳につく。