「曖昧さ」 |
日本人が持つ「曖昧さ」なるものは外国の人から見ると奇異に映るらしい。
唯一神を崇めるイスラム教とキリスト教を信仰する人々が世界の60%以上を占める。
我々日本人は生まれた時は神社へ参拝。
お葬式はお寺さん。
途中の結婚式では神前、仏式、はたまた神父さんの御登場となる。
外から見れば、そりゃ、ややこしいに決まっている。
天照大神を筆頭に八百万の神々がおわします。
神様と云う一つの言葉をその都度都度で巧みに使い分ける。
多機能化ですな。
イスラム圏はマホメットを、そしてキリスト圏はイエス・キリストを絶対神とする。
他を認めない。
昨日のバンジョーの話ではないが、一部品・一機能のような感がする。
文化とは面白い、でも中々分かり辛い。
世界が相互に理解し合えることの難しさがそこにある。
国・人種の違いがあっても、個人間レベルでは相互理解は比較的容易に出来る。
しかし、そこに利害が絡み合うとややこしい。
ましてや国同士の利害のぶつかり合いとなると、力尽くで争うことになる。
昔、それをやって、手酷目にあった経験をしたから、こういう場合、日本は弱い。
まぁ~まぁ~と曖昧に処理をしたほうが無難である。
人間は本来自己の都合でしか動かない、しかも曖昧である。
これを飼い慣らす方法が宗教なのだろう。
その勢力が増大すればする程、より大きくなろうとする。
自己主張し、争いが絶えない訳である。
平和で行きたけりゃ、曖昧さが何より。
でも、ずかずかと土足で上がってくる輩にはチックと刺す程度の勇気と胆力が欲しい。
話が違う方向となった。
先程の三好君からの長電話のせいである。
本論はそうではない。
先日、ドナルド・キーンさんが何かの基調講演をされた時の記事を新聞で読んだ。
氏は日本人が持つ「曖昧さ」を肯定的に捉え
「曖昧さが持つ多元的な思考方法が日本人の表現文化をより豊かにしている」
そのように述べられていたと記憶する。
政治経済の世界では曖昧さは許されないという風潮は昨今強い。
が、結局は曖昧な結果に落ち着く。
それを繰り返している。
世界から見れば奇異なのだろう。
しかし、アメリカであれヨーロッパであれ、政治経済の世界はご都合主義。
曖昧である。
人がやらかす事である。
そんなに変わらない。
そこへ屁理屈でコネ回すから、余計に分かり辛くなる。
ここまで書いて、時間が来てしまった。
今日は曖昧なままで御終い。
帰宅の時間となった。
長電話が恨めしい。(*^^)v