2012年 06月 13日
「音のない喫茶店」 1 |
思った以上に人が溢れていた。
いつもは閑散としている地下街は人気で噎せ返っている。
日曜日のせいか子供の姿が多い。
急に外の空気を吸いたくなり、出口を探し求めた。
時間潰しに地下街を選んだのを悔いた。
どこでもいい。
早くこの場から逃れたい。
6番出口を出た。
歩道が濡れている。
いつの間にか一雨あったようだ。
御蔭で空気が冷たく爽やかに感じる。
人心地付いた。
幸いにも6番出口は大通りに面していた。
東の方角に一際目立つクスノキの大木が見える。
歩調を緩め、外気を楽しみながら昔懐かしいこの街の佇まいに思いを巡らせながら、
東へ歩き始めた。
そうだ、この辺に和楽器のお店があった筈だ。
二件間口の小さなお店だった。
看板に「琴・三弦」と書いてあった。
見回したが何処にも見当たらない。
確か隣は酒屋さんだったと記憶するのだが、今はコンビニに替ってしまっている。
クスノキの傍には色変わりした花びらの残骸が歩道を無作法に被っている。
クスノキは5月頃に黄白色の小花をつけ、
初冬の頃には黒塾した5mm大の球状の果実が大量に落ち、辺り一面を覆う。
歩くには往生するが、小鳥にとってはいい季節なのだろうか。
目印のクスノキの左手に、山の手に向かう一方通行の道路が走っている。
道の両脇には広い歩道が設えられ、
彫刻像が植栽との間に秩序ある間隔で配置されている。
しとしと雨が降る梅雨の季節には植栽の緑が一層映え、
ブロンズ像の色と深い緑のコントラストがこの通りの雰囲気を一段と高める。
俺の大好きなお洒落な通りだ。
少しばかり坂道を登ったところに白い漆喰の壁に黒褐色の張り板で
中世ヨーロッパのコテージ風を演出した構えの小さな喫茶店が目に入った。
爺さんの店に行くには少し間がある。
小腹も空いた。
入ってみよう。
無造作にドアを開いた。
カウンターの中に白のシャツに蝶ネクタイをした初老の男が一人。
見るからに無愛想そうだ。
客はいなかった。
数坪の室内は外装にそぐわず殺風景なものだ。
唯一、歩道側の大きな窓に面するボックスに設えられた
無垢の楓の天板を持つテーブルが不釣合いに目立つくらい。
窓際のテーブルの席に座った。
「いらっしゃいませ」
カットグラスをテーブルに置き、水を注いだ。
グラスの表面に水滴が出来る。
仄かにレモンの香りが漂う。
「ご注文は?」
小首を傾げ、少し微笑みを浮かべたように思えた。
「ホットケーキ、出来ますか?」
「それとコーヒーをお願いします」
「少々お時間が掛かりますが、宜しいでしょうか?」
マスターは低いトーンの声で答えた。
「大丈夫です。時間はありますので」
俺は窓の外に目をやりながら無造作に返事をした。
「かしこまりました」
マスターは踵を返し、コツコツと靴音を鳴らし、
板張りの床を歩き、カウンターの中に消えた。
テーブルの天板に肘を付き、店の中を観察した。
目を引くものはこの天板以外に何もない。
退屈な店だと思った。
周りには雑誌も置いていない。
暇潰しに立ち寄った地下街の書店で買った一冊をカバンから取り出した。
コツ・コツ・コツ 靴音が近づいた。
「お待たせを致しました」
ホットケーキとコーヒーがテーブルの上に置かれた。
「宜しければ、メープルシロップをお掛け下さい」
マスターは静かにシロップ入りの小瓶を置いた。
ふと見上げた瞬間、マスターの目がキラッと微かな光を帯び、
俺の読んでいる本に注がれていたような気がした。
マスターは視線を窓の方ヘ外した。
「ごゆっくり」
囁くような小声を言い残した。
by hirosanguitars
| 2012-06-13 15:16
| 音のない喫茶店
|
Comments(0)