最終章 「ひとつひとつの思い出」 2 |
中学、高校時代はラジコンに夢中だった。
小学校のときはゴム動力の飛行機を作っていた。
自分のが一番良く飛んだ。
いろいろ工夫をした。
二つプロペラを持った双胴機も作った。
見事に失敗した。
50年前のラジコンは真空管を使っていた。
その後、トランジスターが出てきて小型化され、飛躍的に改良された。
信じられないだろうが、ラダー(方向舵)を操作する動力として
輪ゴムを使ったエスケープメントという器械を使った。
現在の機械とは隔世の感がする。
エンジンをブレーク・イン(慣らし運転)するのが楽しくて楽しくてしょうがなかった。
燃料はメタノールとニトロ・ベンゾールそして潤滑油にひまし油を混合したものであった。
何時間も低速で慣らし運転をする。
さぞ、ご近所の人達は迷惑だっただろうなと今では思う。
学校の制服も油でグタグタ、テカテカとなり不気味に光っていた。
先生方もさすがに、これにはまいって
「おい、冨田よ。もうちょっと、その制服、なんとかならんか?」と注意をされた。
「はい、でもこれ一着しかないんです。夏休みになったら洗います。」といったら、
「しゃーないな!」と笑っておられたのを今でも憶えている。
何においても、緩やかな時代であった。
本当に緩やかな時代に育った事に感謝する。
もし今の時代に生まれていたら、自分はどうなっていただろうか?
小学校の高学年になった頃から遅刻の常習だった。
ほぼ毎日。それと、おっちょこちょいだった。
毎日数回は立たされていた。
廊下でも立たされた。
その廊下で立たされた時、数回保健室の先生と出会った。
物凄く恥ずかしいと思った。
その先生は新任の若い人だった。
自分の初恋だったのかもしれない。
その先生も1~2年くらいで辞められた。
お嫁に行かれたらしい。
遅刻癖は直らなかった。
中学、高校へ行っても直らなかった。
何故か、先生に呼び出されたりもしなかった。
母親からも特に言われなかった。
数十年後の話であるが、
この話が茶の間で話題となったときに、母親がポツリともらした、
「私も遅刻魔やってん。そやから、怒られへんかっただけや。」と。
当然、その癖は孫にもしっかりと受け継がれている。
自分は学校に呼び出された。
そして先生方に「これは冨田家の伝統です」
「恐らく直りません。しかし、注意だけはしておきます。」と言った。
呆れておられた。
いまでは、娘は保健室の先生になり、息子はサラリーマンとなった。
自分は時間にあまり制約されない人生を選択した。
つづく
その後、ロン毛にロンドンブーツの兄ちゃんになって・・・
今の姿からは想像できませんね。
とりあえず今は落ち着いてよかったよかった・・・