「当たり前」 |
一昨日、義母が体調を崩し、入院した。
幸い、軽くてすんだ。
余計な心配を掛けないよう、
娘に連絡をすることには躊躇した。
が、今朝、気が変わった。
事実だけを伝えた。
娘夫婦が事務所に現れた。
お見舞いの帰りに、大好物のどら焼きとコーヒーを持参してくれた。
今、マンションを探しているらしい。
それも神戸駅周辺の駅近の新築物件という。
場所を訊くと目と鼻の先だ。
利便性はいいと思う。
ただ、気に入った間取りの部屋は予約済みだそうだ。
キャンセル待ちを狙っているといった。
間取り云々は如何でもいいじゃないかと思うが、
そうではないらしい。
同じ買うなら、妥協はしたくないという。
それも理解出来る。
が、自分が結婚し、新居を構えたときのことが思い出された。
一緒に住めるだけでいい、
間取りは適当で良いと思っていた。
三田の実家での生活が当たり前だったので、
都市ガス・下水道があるというだけで、
自分にとっては天国だった。
娘はそこで生まれ、
5歳の時、近くの戸建てへ引っ越した。
そこで20年住んだ。
その20年の生活環境が彼女の当たり前となっている。
娘夫婦は大阪に新居を構えた。
急な転勤等の諸事情で、
慌ただしく住まいを選定せざるを得なかったらしいのだが、
当初はお気に入りだった。
大好きなUSJが目の前にある。
年間パスポートも買って、はしゃいでいた。
しかし、いざ住んで、数ヶ月が過ぎると、
何かと不都合を感じて来たらしい。
そして新しい住まいに関心を示している。
自分の当たり前は他人の当たり前とは違う。
一人一人の尺度はそれぞれの生活環境から生まれる。
良否はない。
それを自覚し、行動すればよい。
妥協とはそういうことだと信じる。