「震災」 5 |
一本、一本ギターを念入りに検品した。
ダメージは全くなかった。
置いている位置を仕分けていった。
例えば、マーチン・セクションとか
ギブソン・セクションとかであった。
再開できる日が何時になるかまったく予想も出来なかった。
順繰りに絃を張り替えたり、音出しをした。
今日は28を試してみようか、
明日はJ-45がいいなと思ったとき、
サット出せるようにする為である。
退屈凌ぎでもあった。
一本一本眺めていると気になるところが見えてくる。
修理・調整の必要があると判断した箇所を
ノートに書き留めてゆく。
暇だから、そんなことばかりしていた。
そのうち、することも無くなった。
水が出ないので髭剃りもしない、
髪の毛も洗えない。
結構これが堪えた。
人間、しゃきッとするためには
身だしなみは大切である。
鈴蘭台に住む友人から
「こっちは水も出るし、ガスも使えるので遠慮なく風呂を使ってくれ。」
と、ありがたい申し出を受けた。
遠慮も何も無い、喜んですっ飛んでいった。
気持ちよかった。
ありがたかった。
それから間もなくして水道が使えるようになった。
やっと、普通の生活が出来るようになったと実感した。
只、無収入の月日が何時まで続くのかと思った瞬間、
胸が締め付けられるような不安が襲ってくる。
1995年6月にJRが運行を再開すると聞いた。
それまでの5ヵ月半の間にも、
数人のお客さんが来られ、
ギターを買っていったのであった。
遠くは北海道から。
近くは宝塚、大阪そして京都から来られた。
6月にJRが大阪―神戸間を開通させるまでは
確か部分開通だったと思う。
つなぎはバスか徒歩であった。
正直、そこまでしてと思ったのも事実である。
でも、嬉しかった。
ありがたかった。
一息つけたと思ったのは本音以外何ものでもなかった。
神戸は震災でほぼ壊滅状態。
しかし、そこから離れたところは平穏無事。
実はこの事が真っ只中にいる自分には分からなかった。
自分の周囲の状況しか見えない、
或いは見えていない。
見ようともしなかったのかもしれない。
もしも日本国中が壊滅していたら、
援助の人手も物資も来ない。
ましてや、ギターを買いに来れる訳がない。
助けてもらっているという事は
たくさんの平穏無事な人たちがいるということなんだ。
そう思うことで心の中で温かな光を感じるようになった。
6月1日はヒロコーポレーションの設立日。
その日を再開の日にしようと思った。
満20歳のお誕生日だ。
DMを出した。
再開できた事を素直に喜びたい。
人様の助けを得たおかげだと思った。
感謝の意をこめて全品20%OFFのセールをした。
オールド・マーチンもギブソン
そしてソモギ、グレーヴェンも例外なしとした。
おかげさまでたくさん売れた。
でも本音を言うと20%OFFはきつかった。
「ありがたいことだ!そんなこと言っていたら罰があたる。」
と自分に言って聞かせた。
ErvinもJohnも優先的にギターを回してくれた。
みんな協力してくれた。
感謝にたえない。
この時を境にして次第に御客様に
何かの形にして、お返しがしたいと思う気持ちが大きくなってきた。
しかし、まだ白紙の状態だった。
お客さんやプレーヤーと話し込んでいるうちに、
おぼろげに浮かんできた事があった。
アコースティック・ギター音楽は
まだまだ世間における認知度は低い。
多くの人に「生」で聴いてほしい。
ギター音楽の素晴らしさ、
楽しさを伝えたくなった。
「コンサートをしよう!」と思った。
1998年から企画に入った。
「この章終り」、 つづく