2011年 01月 08日
松永さん 2 |
松永さんは岡山の総社市に居を構えておられる。当時、山陽自動車道はまだなかった。
中国自動車道がある程度西へ伸びていた時代である。確か、北房インターで降り新見を
通り南へ下りてゆくルートで行ったと記憶する。4時間程度かかった。山道で車が
一台しか通れない、対向車が来たらどうしよう、と不安感一杯の道中だった。
極め付けが最後の20mであった。彼の家に入ろうとすれば、道幅約2m、右は壁、
左は田んぼ。左右10cm程度の余裕しかない細い道。元来、方向音痴で車の運転が
下手な者からすれば、まさに拷問のようなものだった。一度目は何とかクリヤーできたが、
今後の自信がない。この後、この細い道の手前にあるスペースに車を留める許可を
取って頂いた。我ながら情けない話である。
最初に「お伺いしたい。」との電話をした時に、こうおっしゃっておられた。
「こんな処でギターを作っているのかと知られたら、夢を壊されるで。」と。
狭いという意味である。
本当に狭かった。「えっ、このスペースで作業が出来るの?」と正直思った。
勿論、塗装とか乾燥スペースは他にある。彼は木材、それに付随する機械「御宅」である。
納屋の作業場には機械がたくさんある。軒下には木材が処狭しと積上げられている。
「いつ使うの?」と尋ねると「分からん!」の一言。いいのが出ると、買ってしまうらしい。
何時しか彼の病が自分にも感染してしまったようだ。「一病息災」、この病気のおかげで
今まで生きてこられたと思う。
つづく
中国自動車道がある程度西へ伸びていた時代である。確か、北房インターで降り新見を
通り南へ下りてゆくルートで行ったと記憶する。4時間程度かかった。山道で車が
一台しか通れない、対向車が来たらどうしよう、と不安感一杯の道中だった。
極め付けが最後の20mであった。彼の家に入ろうとすれば、道幅約2m、右は壁、
左は田んぼ。左右10cm程度の余裕しかない細い道。元来、方向音痴で車の運転が
下手な者からすれば、まさに拷問のようなものだった。一度目は何とかクリヤーできたが、
今後の自信がない。この後、この細い道の手前にあるスペースに車を留める許可を
取って頂いた。我ながら情けない話である。
最初に「お伺いしたい。」との電話をした時に、こうおっしゃっておられた。
「こんな処でギターを作っているのかと知られたら、夢を壊されるで。」と。
狭いという意味である。
本当に狭かった。「えっ、このスペースで作業が出来るの?」と正直思った。
勿論、塗装とか乾燥スペースは他にある。彼は木材、それに付随する機械「御宅」である。
納屋の作業場には機械がたくさんある。軒下には木材が処狭しと積上げられている。
「いつ使うの?」と尋ねると「分からん!」の一言。いいのが出ると、買ってしまうらしい。
何時しか彼の病が自分にも感染してしまったようだ。「一病息災」、この病気のおかげで
今まで生きてこられたと思う。
つづく
by hirosanguitars
| 2011-01-08 13:50
| アコースティク・ギターと35年
|
Comments(2)

去年の7月と11月に、仕事で4日間総社市の伊予部山(伊与部山)に行ってました。
地図で確認すると、伊予部山から真東、川を挟んで直線距離2キロほどの位置に、
松永ギター製作所があるので驚いています。
たぶん仕事現場から製作所が見えたでしょう。(田んぼの多い地域ですね)
松永さんの近くに居る認識を持っていなかったことが、今にして残念です。
中国道から地道だと大変な山道ですね。当時なら日帰りは厳しかった?ですね。
地図で確認すると、伊予部山から真東、川を挟んで直線距離2キロほどの位置に、
松永ギター製作所があるので驚いています。
たぶん仕事現場から製作所が見えたでしょう。(田んぼの多い地域ですね)
松永さんの近くに居る認識を持っていなかったことが、今にして残念です。
中国道から地道だと大変な山道ですね。当時なら日帰りは厳しかった?ですね。
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今では山陽自動車道が整備されていますので楽になりましたが、当時は本当に大変でした。ふりかえると、いい思い出となっています。