「底なし沼」 7 |
ギター音楽の礎を築いた草創期の先人達は
ギターの持つ可能性を極限近くまで探求した結果、膨大な楽曲を後世に残した。
ギターが未成熟な頃からであるから驚かされる。
然も、今でも教則本の定番であるカルカッシ・ギター教則本は
その当時に作られたものであり、彼等は構えの基本をなす踏み台も考案している。
そう考えると、我々は先人達が残した遺産の上に成り立っている事がよく理解出来る。
翻って、アコースティック・ギターを考えてみる。
別段変わりはない。
6弦でフレットを持っている同じギターであるとしか言えない。
ナイロン絃であるのか、スチール(鉄)弦であるのかだけの違いである。
ギターとしては起源は同じであり、奏法も基本的には同様である。
しかし二つのギターの歩んで来た道は全く違ったものとなった。
実はナイロンと鉄という素材の持つ特性が歩む道の違いを生んでしまったのである。
ナイロンは柔らかい。
柔らかなものは反応が鈍く、力が弱い。
鋭い反応と音量を生む為には爪を立て、より強く弾かねばならない。
必然的に弦高は高くなる。
そういう宿命を持ちつつ、より精度の高い高貴な演奏性を求め、
インスツルメンタルの道を歩んで来た。
ギターとしてはトーレスの考案で横の制御に成功し、
今も構造の主流をなし、安定した成果を出している。
只、レスポンス(反応)に課題は残るが、スモールマンの出現により、
その問題への指針は示されたと思っている。
鉄は硬く、張りはナイロンの倍程強い。
反応も鋭い。
ギターとしては丈夫に作らねばならないが、そうすると反応が鈍くなる。
非常に難しい課題だが、いとも簡単に解消されてしまった。
流石アメリカとしか言い様のない解決策であった。
ボディーのサイズにバリエーションを設けたのだ。
ドレッドノート、オーディトリアム、オーケストラモデル、グランドコンサート、
そしてコンサートという呼称を付け、売り出した。
勿論、主流はドレッドノートである。
当時としては度肝を抜かれる程の大きさであった。
鉄弦は爪で弾くには硬過ぎる。
フラット・ピックやサム・ピック等も用いられ、奏法にもバリエーションが出来た。
そして幅広く商業音楽と結びつき、主に歌物の伴奏楽器として今日に至っている。
しかし、独奏楽器としては未だ未成熟と言える。
余りにも広範囲なジャンルが存在し、各ジャンルにおけるレジェンドが君臨し続けており、
一種これが悩みの種となっている。
決してレジェンドが悪いのではない。
確かに彼等の音源が残り、譜面もある。ファン達はそれに憧れ、コピーする。
それは誰しも通る道であるし、真似ることによって腕を磨くのであるから、
全く結構なことである。
が、これ等が全てで、これしかないという程に固定されるとなると、話は別である。
クラッシクも含め、特にギター(楽器)・ビジネスの世界ではこれ等が利用されてしまう。
誰それモデル、何年物のヴィンテージ等々である。
それも悪くはないが、そろそろ考え時だろうと思う。
「ギターをギターとしか」 という考えではモノの世界に入っていく。
無論、ギターは物である事には違いない。
商品経済に組み込まれてしまった今、そんなことを考えても仕方がないかもしれない。
何の道、売れてなんぼ、食えてなんぼである。
その道を取るのも善しである。
しかし、それでは決していいものは創れない。
ギターというのは謂わば張りぼて細工である。
一つ一つの部品を作り、組み上げていく作業である。
その工作精度を高めて行く先に楽器としての姿が見え、やがて音へと繋がって行く。
そういう地道な作業である。
フレット、スケールの精査。
弾き易さの追求。
素材の吟味。
塗りの確かさ。
見直しは数え切れない程あろう。
モノ作りとはそういうものである。
答えはない。
考えれば考える程、深く嵌り込む世界である。
しかし、お金として得るものは少ない。
でも、好きだから遣ってしまうのである。
「あんたにその覚悟があれば食っていけるわ」
爺さんは一頻り喋り終えると、俺の方を向き、そんな言葉を投げかけた。
皺だらけの目尻から一筋の光るものが見えたような気がした。