「数寄者」 |
午後6時、ギター教室が終わり誰もいなくなった。
緊張から解放された瞬間でもある。
背凭れに深く身を沈ませ、目を閉じ、今日一日を振り返った。
ナイロン弦の音が未だ響き渡っている。
今日はナイロン弦の日だった。
クラッシック・ギターである。
4機種を弾き比べ、ああでもない、こうでもない。
あの弦はどうの、この弦はどうのと語り合い、意見を交換し合う。
ギター好きの典型である。
オタクの世界でもある。
人其々に想い描く理想の音が存在する。
それを追い求めるのが好き者たる所以。
行き着くところはない。
青い鳥を探し求める姿と等しい。
それはプレヤーだけではない。
ギターを製作し、提供する側の人間とて同じだ。
何処にも正解なんて存在しない世界であることは分かっている。
それでも彷徨い続け、迷い続ける。
そこに何とも底知れぬ快感を覚える人々を御宅とか数寄者、
と世間ではそう呼んでいる。
好きな世界を持っている人は幸せである。
持っていない人からすれば羨ましい事だと思う。
ただ一つ間違えると手酷いしっぺ返しを喰らう可能性は大である。
程々がいいのだが、程々を弁えている内は数寄者との尊称(?)は与えられまい。
形があり、目に見えるものは未だ分かり易い。
しかしそれとて、その深淵に迫ることは至難である。
まして姿は見えず、形もない音世界となると正に五里霧中。
方向すら判らない。
最後の最後は好きか嫌いかで判別するしかあるまい。
音はプレーヤーと楽器との対話だ。
極論すれば弾く側と聴く側とでは全く違う捉え方となる。
ブラインド・テストではそのことは顕著に出る。
高価な名器と呼ばれる楽器から出る音と廉価の楽器からの音を比較した際に、
聴衆はさて何方に軍配を上げるのか。
皮肉にも、往々にして廉価の方を取る場合が多い。
音は音場によってかなり異なる。
聴く側との距離が相当な問題を含むことは確か。
周りの環境にも支配されるので、非常に厄介な問題だと言える。
但し、弾き手はその楽器の反応を直接体感出来る。
それ故優劣を決めうる立場にあると言える。
当然弾き手は手練の者であることが条件だが。
そろそろ帰り仕度をと思うが、嫁よりの電話が未だない。
確か娘夫婦と先日オープンしたトイザラスに行くと言っていたので、
恐らくそこら辺を彷徨いているに違いない。
俺の頭の中もズ~とギターの音が彷徨い漂い続けて、未だ醒めない。
少し時間はあるようなので、コーヒータイムとするか。
西宮のMさんから頂いたヒロ・コーヒを飲んでみよう。
少々ストロングだと言っていた。
「良い楽器」を定義するのは、「美味しい料理」を定義するのと似ていると思います。ものすごく厳密な意味での言葉での定義は無理ですね。
でも、美味しい料理とか良い香り、といった抽象的な言葉で日々の生活が成立するのは、人は人の持つゆるやかな抽象性や揺らぎの中で相手の言葉を受け止めようとする、優しくて高い次元での能力を備えているからでしょうね。
コカ・コーラの味を言葉で正確に表現することはできないのと同様、楽器の音を言葉で伝えることにはおのずと限界があるような気がします。
でも、そんな話をぐるぐると何時間でもしているのが楽しかったりもするんですよね(笑)。本当に摩訶不思議な、でも楽しい世界です。
話しは変わりますが、娘さん夫婦がトイザラスに行かれるとか・・・。
ヒロさん、ひょっとして初孫誕生? もしも、そうなのなら・・・
お~め~で~と~う~!!!